歴史|圓應寺歴伝録 HISTORY&OMEN

筑前福岡照福山顕光院圓應寺代々略傳④第四世學蓮社宏譽上人太道和尚

宏譽諱は太道長門之國の人なり 七歳にして本邦穴生弘善寺存道和尚に投しめ薙髪す 存道嫡弟 十八歳にして錫を武江に飛ばしめ 縁嶺定譽随波和尚に随従 浄土法灯を傳ふ 初めは遠賀郡穴生弘善寺に住持す 後に撰挙せられて當山に移住す 此代に當て太守忠之公照福院殿冥資の為に那珂郡住吉村百石の地を以て當寺に寄附し玉ふ 耳順に及て隠居す 念佛の功積り読誦の業蘭たり 遷化の年正…

筑前福岡照福山顕光院圓應寺代々略傳③第三世延蓮社専譽上人誾公和尚

誾公和尚 始めは博多正定寺の住持たり 後に選挙せられて當山に轉住す 當寺大檀那 照福院殿結縁導師たり 寛永四丁卯年十二月六日遷化 誾公或は歴誾と号(なづ)け稱す

筑前福岡照福山顕光院圓應寺代々略傳②第二世全蓮社呈譽上人阿跡和尚

呈譽諱(いみな)は阿跡和尚 生國は周防の國山口の人なり 毛利の下臣杦山治部末子云云 當寺離山の後 京都心行寺に移住す 慶安四年卯年六月二十五日信樂寺に於いて遷化す 故に當寺に廟所無し

筑前照福山顕光院圓應寺代々略傳①開山天蓮社眞譽上人見道大和尚の傳

眞譽上人 諱は見道 播州赤穂の人なり 初め播州の心光寺に居り 専ら浄土の法門を講し 能く羣黎を勧化するを以て千邦域に聲有り 照福院殿浩榮尼公は黒田如水軒孝高公の夫人 長政公の聖善なり 稚(もと)より佛乗に深く帰し 浄土を信ず 長政公筑前に封せらるるに及て道を召して以て師と■ 太守の為に一梵刹を營み 道の為に屋を使しむ 母公■菩提所に擬す 土木就功なりて顕光山…

歴史|その女性の名は光(みつ)Princess Mitu

戦国時代の軍師・官兵衛に生涯にわたり愛され続けた女性 圓應寺開基 光姫さまの生涯 光姫さまは、天文22年、志方城主・櫛橋伊定の次女として生まれ永禄15歳の時、おじにあたる小寺政織の養女となり、22歳の黒田官兵衛の正室として姫路城にはいりました。光姫さまの父伊定は、早くから官兵衛の才能を高く評価しており、結婚の1年前に赤格子兜と胴丸具足を贈っています。嫁いだ翌…

歴史|頭山 満 翁 HISTORY

頭山満は国士無双といわれ、昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者。玄洋社の総帥として多くの思想の柱となりました。アジア各地の独立運動を支えたことでも知られています。1855年4月12日筑前国早良郡西新町の福岡藩士筒井亀策の三男として生まれました。小さい頃から優れた記憶力で、物事を語ることが鋭敏だったと言われており、11歳の時、 楠木正成のような人物になりたい…

歴史|黒田二十四騎について HISTORY

黒田官兵衛(如水)を語るに、黒田二十四騎の存在は欠かせません。黒田二十四騎とは、文禄元年(1592年)の侍大将(備頭)にて構成されており、特に功績を残した重臣達の総称です。圓應寺には、勇猛果敢を謳われた黒田二十四騎ほか生田昆陽之助や国学者二川相近、櫛橋左京之進の嫡子定重などその他多くの家臣が祀られています。 野口佐助一成 上月合戦の高倉山城の大手口で、一番槍…

歴史|福岡大空襲と圓應寺 HISTORY

福岡大空襲 1945年(昭和20年)6月19日に起きた福岡大空襲では、奈良屋校区に次いで多くの死傷者を出したのが圓應寺のある簀子校区でした。簀子校区では当時、1885戸のうち1700戸が焼失し、 176人が犠牲になったとされています。圓應寺も例外ではありませんでした。伽藍、本尊、寺宝は業火になめつくされ、墓石までもがその熱で粉砕されました。照福院殿光姫君と官…

歴史|東照権現と弁財天堂の空海・最澄 HISTORY

寺院内にある弁財天堂は、昭和20年の福岡大空襲において奇跡的に焼け残り、堂祠の中には、真言宗の開祖である弘法大師(空海)の作といわれる弁財天像と天台宗の開祖である 伝教大師(最澄)の彫刻とされる大黒天像の二体がご神体として祭祀されています。 神仏をお祀りする際、本来は三位一体(三尊)の場合が圧倒的に多いのですが当寺の寺宝は現在、二体が残されています。実はもと…

歴史|-薄命の美女-厚姫の奇しき話 HISTORY

厚姫(KOUHIME) 福岡藩六代藩主・継高公の息女・厚姫君は数奇な運命を辿られた姫君でもありました。厚姫は六代藩主黒田継高公の十四女で、母親は公家である鷲尾家の出身でした。厚姫は透き通るような白い肌の美しい姫君だったと伝えられています。 厚姫が12歳の時、縁談が持ち上がりました。相手の方は、公家の醍醐冬香卿でしたが、結納の準備も整いもう間もなくとなった頃、…

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