歴史|黒田二十四騎について HISTORY

黒田官兵衛(如水)を語るに、黒田二十四騎の存在は欠かせません。
黒田二十四騎とは、文禄元年(1592年)の侍大将(備頭)にて構成されており、特に功績を残した重臣達の総称です。
圓應寺には、勇猛果敢を謳われた黒田二十四騎ほか生田昆陽之助や国学者二川相近、櫛橋左京之進の嫡子定重などその他多くの家臣が祀られています。

野口佐助一成

上月合戦の高倉山城の大手口で、一番槍の功名をあげました。
三木城でも騎馬武者を槍で倒すなど槍の名手であるとともに、謙信流の使い手であったとも伝えられています。

その戦術は敵に体を晒し、敵の一撃を左小手に何重にも分厚く巻いた鎖帷子で受けると同時に槍にてカウンターを打つという一撃必中の捨て身技であったそうです。

福岡城建築の際には石垣奉行を命じられました。
驚いたことに、この時代の石垣にして現在の耐震構造に通じる作りであることが近年注目を集めました。
優れた技術と先見の明があったと言えます。

父親の浄金(蓮刹院殿言譽浄金居士)は僧職であり、黒田官兵衛とは囲碁仲間だったと伝えられています。
圓應寺には父浄金とともに野口佐助は祀られています。
この浄金は圓應寺が開基して最初の靈位となる没年月日から窺い知ることができます。

桐山孫兵衛信行

文禄の役中、長政の使者として肥前名護屋城を訪ね、豊臣秀吉から兜を拝領しました。

その変わり兜は左右に蟹のツメ、その真ん中に豊臣秀吉の代名詞たる「瓢」をつけたものです。

毎年命日である1月23日には桐山孫兵衛信行の墓所への黒田公の代参があったと記録されています。

久野四兵衛重勝

武士でありながら土地区画整理の名人といわれ、戦乱で荒廃した博多の復興に奔走し、わずか二十日間で町割りの基礎を作るなどの功績を残しました。
この町割りを基に博多祇園山笠の各流ができていることを考えますと感慨深いものがあります。
天正20年(1592年)4月、文禄の役の平壌城の戦いで歩哨に出ていた折、敵と装遇し負傷しながらも相手を倒すも翌日、その際の傷が悪化し享年48で亡くなります。
今も久野四兵衛は博多の街を見守っています。
久野四兵衛の孫の代より、現在に至るまで圓應寺の檀家として四兵衛をはじめとする久野家をお祀りいたしております。

小河伝右衛門信章
小河家に伝わる二十四騎図

小河伝右衛門は、白川城において百挺の鉄砲を駆使して明軍の南下を阻止したという功績の持ち主と伝えられています。

現在もなお、小河家の一族がお檀家さまとして残られています。

左の黒田25騎の図は小河家にあったもので、大変珍しいのは飾り兜で二十五人の武将を描き分けるものが多い中、この図では兜を脱いでいる武将もちらほら描かれています。

母里太兵衛友信

黒田官兵衛とは又従兄弟の関係。豪快で槍術に優れた剛力の勇将で「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも広く知られています。

この母里太兵衛は、圓應寺開基光姫さまを大阪城下天満屋敷よりお救いしたこともあり、圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。

        

黒田三左衛門一成

黒田官兵衛が荒木村重に捉えられていた際、牢番だった加藤重徳の次男でありましたが、官兵衛に対し温情を図ったことに感謝し、重徳の次男を我が子同然に育てたいと官兵衛が引き取り、 長政の実弟のように光姫さまに大切に育てられました。

以後、長政に献身的に補佐し戦い続けました。黒田長政、母里太兵衛らと並ぶ身長は180センチを超えていたそうです。更に巨大な水牛角の兜であったため、朝鮮出兵の際はその姿に敵兵が恐怖したとも言い伝わっています。

後の黒田騒動では藩側に立ち幕府の裁判で栗山大膳を退けました。圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。

井上九郎右衛門之房

官兵衛が荒木村重に囚われの身になったとき敵地に忍び込み、其の安否を心配し官兵衛の牢の周りを徘徊し囚われの官兵衛を支えました。
慶長5年官兵衛と豊後大友氏の石垣原の合戦において吉弘統幸との一騎打で槍を合わせ打ち勝ち、 その名を天下に知らしめたと伝えられています。
光姫さまの姪を正室に迎えたこともあり、圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。

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