歴史|圓應寺と眞譽上人の縁 HISTORY

天蓮社眞譽上人見道大和尚

天蓮社真誉見道上人は播州赤穂の人、武門赤松氏の流れを伝える名家で黒田家とは同郷です。
播磨黒田家菩提寺心光寺においては浄土の法門を講じた第二世住持でした。
如水の実父(黒田職隆)の葬儀の際の引導導師でもありました。
そして昔軍師・官兵衛如水の参謀の一人であったとも伝えられています。

1586年(天正15年)官兵衛如水が九州平定を開始する際も行動を共にして、この年に唐津の教安寺を開基しています。(唐津教安寺資料より)
翌年、官兵衛如水が播磨国(兵庫県)姫路から豊前国(福岡・大分)中津に転封するとき、黒田家一族とともに中津に移住し、黒田家菩提寺・中津圓應寺を開山しました。(中津圓應寺資料より)
1600年(慶長5年)に筑前国にお国入りをするあたりで中津より小倉入りをして小倉圓應寺を開基しました。(小倉圓應寺資料より)小倉圓應寺境内には現在北向赤松八幡という社があり、 赤松氏との縁があったことを偲ばせます。
そして、1602年(慶長7年4月)、福岡藩の始祖黒田官兵衛如水公の夫人、照福院殿(光姫)が初めて寺院を開基し、黒田家の菩提寺としました。

圓應寺の開山として、小倉に圓應寺を僧房として構えていた光姫は夫官兵衛と縁の深い見道大和尚を招き、開山上人にされたことからも官兵衛に対する深い愛情が読み取れ、大切な家族と阿弥陀さまを「信じる心」の強さの顕れがうかがえます。
開山上人を請け負った見道大和尚からもお二人に対する深い忠誠を感じられるのです。当時はこれらの開山した四か寺を束ねていらっしゃったようです。

光姫から照福院へ

光姫が出家をいつどこでしたのか、1600年大阪脱出の際はまだであったようです。また1601年連歌の際も「幸圓」の雅号で戒名には文字が入っていません。

直接書かれた書物は今まで見つかっておりませんでしたが、圓應寺資料の「圓應寺代々略伝」の見道大和尚傳には興味深いことが綴られています。

『如水公卒シ夫人乃チ剃染ス 道ヲ以テ傳法戒師ト為ス 崇奉ますます厚シ』
【意訳】
ー如水公がお亡くなりになって、夫人(光姫)は髪を剃 り、墨染めの衣を着け仏門に入って尼となられた(剃髪染衣)。(見)道が浄土宗傳法、傳戒の師となった。仏道を尊び、ますます厚く崇拝した。ー

ここに記されている通り、光姫に照福院殿の法名を授与したのは、信頼関係や史実背景からみても、見道大和尚であることは間違いないと思われます。それは1602年当寺を開基し、最愛の夫官兵衛如水公がお亡くなりになった1604年ではないかと思われるのです。

更に「慶長七・九年知行書附」の櫛橋宗雪の項目に『照福院ノ弟、但櫛橋七兵衛父也』と院殿号を見ることができるのです。つまり慶長九年(1604年)に仏門に入られ、以降「照福院殿」と呼ばれるに至ったのです。

官兵衛如水公や照福院殿光姫さまと深いつながりの中、圓應寺を開山された見道大和尚は1612年(慶長17年)9月24日、ここ圓應寺において寂を示されました。

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