護法善神-戦いの神-から財の神へ
インド・チベット仏教では、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられました。
“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づけられます。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神でです。
チベット・モンゴル・ネパールでは貿易商から財の神としての信仰を集め、チベットでは福の神としての民間信仰も生まれました。
日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされましたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられました。
インドでも厨房・食堂の神ともされていましたが、日本においては最澄が毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりとだそうです。
日本では大国主命と習合
日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰されました。
後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。
室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。
現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されます。
袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。
また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。
圓應寺の寺宝大黒天の縁起
圓應寺の寺宝でもある大黒尊天像は天台宗の開祖である伝教大師(最澄)が三度の礼拝をしては一刀を入れ像を刻み完成させた「一刀三礼」の彫刻とされます。
この大黒天像も弁財天同様に焼失を免れました。
大黒天の縁日「甲子」の大祭
お唱えいたしましょう
①ご宝号
オン マカキヤラヤ ソワカ
②南無大黒天(十回)