原口 可奈子 さん

プロフィール

生粋の福岡市生まれの福岡市育ち。大学を卒業後、編集者として通信社出版局や出版社勤務を経て、2010年にフリーランスの編集者・ライターとして活動を始める。

出版社勤務時代がタウン情報誌の編集者だったことを活かし、飲食店・人物インタビュー・インテリア・住宅物件・ブライダル・ファッション・ヘアサロンなど街ネタや行政など雑誌の企画提案や取材、企業ブランディングにおけるコンテンツ制作を手掛けている。

2020年、新型コロナウイルスがきっかけで生き方を見つめ直そうと思い、日本文学に対する造詣を深め仕事に活かしたいと秋入学で2度目の大学生となる。

まだまだ仕事への比重が高いものの、現在、仕事と勉強の両立を目指して邁進中。

圓應寺との「縁」やお寺について思うこと

小学生の頃から神社仏閣が好きです。父方の親戚に高齢な人が多かったのか、幼い頃から法事や法要に出かけることが多く、幼稚園の頃には般若心経を空で言えるようになったほど、お経を耳にする機会が多い子ども時代を過ごしていました。仏教に対しても自然と関心が高くなり、小学生から高校生の間に出かけた国内旅行といえば京都が大半を占めるほど。それほど、わたしにとってお寺や仏教は日常にあるものでした。

圓應寺に初めて伺ったのは、雑誌「福岡ウォーカー」の取材です。本堂に入ったのは夕方の陽が落ち始める時刻だったのですが、陰りゆく光と蝋燭の灯りが入り混じり、なんて幻想的な仏さまなのだろうと一瞬歩みが止まったことを覚えています。この取材をきっかけに、圓應寺が行なっている写経に数回参加していますが、筆を止めてふっと顔を上げると、目の前には心が震えるように神々しく、手と手を合わせたくなる本堂がある。宗派は違えど、なんて幸せなご縁をいただけたのだろうとその時の光景を思い出す度にあたたかな気持ちになります。

夕方から夜にかけてしか伺ったことがない圓應寺ですが、2020年の夏、副住職の三木 英信氏からお誘いをいただき、黒田官兵衛公の奥方・光姫さまの394回目の祥月命日に参列させていただきました。初めて参列した圓應寺の法要です。お寺での法要は、菩提寺以外では今まで参列したことがありません。歴史上の有名な人物の法要というスペシャルなイベント感と、昼の光が差し込む本堂の姿を見てみたかったので意気揚々と出かけました。

本堂に対して清らかなエネルギーを感じる、という感覚と表現がどこまで他者に伝わるのか、もしかしたら(圓應寺の関係者の皆さまに対して)失礼に当たるのか、正直よくわかりません。ただ昼間に見る本堂も美しく、聞き慣れない浄土宗のお経はとても気持ちの良いものでした。

 ―― 「お寺」と聞いて、皆さんが最初に思い浮かぶのはどんなことでしょうか。わたしが真っ先に思い浮かべるのは、父方の先祖の位牌がある菩提寺のこと。同時に、わたしが高校生の時までご存命だったご住職のおじいちゃんと、ご住職が他界された後も元気よくお寺を切り盛りしていた奥さんのおばあちゃんの姿を思い出します。

祖母が他界した2歳の頃からお寺へ行くようになり、本堂に手を合わせてお墓掃除をするのが家族の毎月の恒例行事。小さい頃はピンとこなかったのですが、小学校高学年になるとお寺の凛とした清らかな空気をなんとなく肌で感じるようになり、京都のお寺とはまた違う心地よさが好きで、また法要やお墓掃除を終えた後におじいちゃんご住職やおばあちゃんとお菓子を囲んでお話をする時間が楽しくて、わたしの知らない祖母や祖父の話、お寺がある地域の昔話を聞くのが大好きで、毎月お寺に行く日を心待ちにしていました。

お寺に対して印象が変わったのは、おじいちゃんご住職が病床に伏したあたりから。“おじいちゃん”が倒れられてからというもの、お寺の隅々まで行き届いていた清々しい凛とした空気がゆるまったような気がしたんです。その後もお墓参りに行く度に「今日も本堂や境内の空気が違う」と幾度となく寂しさを感じていたのですが、次第に「お寺といえども空間は人がつくるんだ」と理解するようになりました。そのことを実感しているからこそ、美しい気を放っている圓應寺とご縁をいただけたことをとてもうれしく思っています。

お寺や神社は神聖な場所――、わたしたちは当然のようにそういうフィルターを通して寺社仏閣を観ています。でも、当たり前ではないと思うんです。見落としがちなんですよね、清らかな空気が満ちていることや、厳かな雰囲気をつくり上げているのは「人」だということに。仏さまは確かに尊い存在です。しかし、心が静かになるのも、手を合わせて拝みたくなるのも、すべてそこにいる「人」が心を磨くことを怠らず、隅々にまで心配りしているから。そこで生活をしている人たちの気に触れることで、お参りする人は清々しい気持ちになれるのではないかと考えるように至りました。

そう思うと、心から手を合わせたくなるような本堂に残りの人生であとどれだけ出逢えるだろうと考えられずにはいられません。

取材の時、ふと思ったことを素直に聞いてみました。「観光地でないお寺にフラッとお参りに行ってもいいのですか?」と。

誰から言われたというわけではないけれど、神社と違って菩提寺あるいは観光地化している場所以外のお寺には檀家以外の人は立ち入ってはいけないような気がしていたんです。すると副住職は「考え方は観光名所のお寺と一緒で、どんな人が来てもいいんです。お寺に対する敷居を低くしたくて写経や写仏の体験を始めました」とお話してくださいました。

お寺やお経は、本来、この世に生きている人たちが幸せな道を歩めるようにつくられた道しるべのようなもの。特にお経は、精神的な苦しみと向き合ってきたお釈迦さまが自身の経験を通して生きている人たちに贈るアドバイスやエールのようなものだそうです。「疲れた心にパワーチャージしたり、健やかな気に触れたり、宗派に関係なく圓應寺が福岡の人にとって癒しの場所になればいいなと思っているんです」。そうおっしゃったあの時の副住職の言葉は忘れられません。だってわたしにとっては新鮮で、心に響いた考えだったから。

この寄稿文を書くにあたり、副住職に取材した時のノートを今、久しぶりに開いています。ノートの端っこに「最後に手を合わせたのはいつだっけ?」と走り書きしている部分を見つけました。おじいちゃんご住職とおばあちゃんが他界された後、お寺に行く頻度が極端に減ったわたしは、手を合わせるという習慣からもずいぶん遠のいたような気がします。

「仏さまの前で手を合わせることでご先祖さまも喜んでくれたかなと思うと、心が晴れるよね」。副住職の言葉にハッとしました。心を鎮めたい時、目の前にいない誰かに感謝を伝えたい時、幼い時のわたしは自然と手を合わせていました。なのに、身につけていた習慣をいつの間にか手放していたと…。

 疲れた心を癒す手段として、ヨガや陶芸、アロマ、サーフィンなど新しいことを始める大人が多いですが、手を合わせることから始めるのもいいんじゃないかなと思います。幼稚園の頃は空で言えた般若心経も今ではすっかり忘れちゃったのですが、手を合わせて目をつぶると、気持ちが切り替わってふっと心が静かになるんです(この寄稿文を書いている、まさに今、パソコンの前であっても)。

 京都のお寺で行なっている写経体験のように、一度、圓應寺での写経・写仏体験に行ってみませんか? 幻想的でへぇ!って思うステキな体験が福岡でできると思うから。

原口 可奈子を知る

「編集者ってどんな仕事?」とよく聞かれます。

編集に関する捉え方は様々かもしれませんが、わたしがイメージしている編集者とは「翻訳者であること」。誰が見てもわかりやすく伝えることが編集者の役目だと考えています。

自分たちのことを知ってほしいと精一杯がんばっているのに、なかなか伝わらない…。

それは、伝え方に原因があるかもしれません。

自分たち(企業やお店)に対して「いいな!」 と共感してもらえる伝え方。

難しい内容をわかりやすい言葉で伝える方法。

タウン誌を制作してきた経験を活かして、広報や自社の広報誌制作、Web制作などPRに関するお手伝いできればと思っています。

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