「目に見えない拠り所」先祖を敬う心 -北野武氏から読み解く-

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お墓、葬儀など、個人化という簡略化が進んでいます。

家庭から先祖という意識をもたない方向へ進んでいることによって失われるものと得られるものは何か。
得られるものは先祖崇拝という習俗からは解放されていく快適さと自由があるのかもしれません。

しかし、そのことによって、個を超えた命の重さ、命の連続性、家風、信仰といった、目に見えない拠り所が失われていくのではないでしょうか。

映画やテレビで大活躍の北野武さんが毎日仏壇に手を合わせていると聞いたら、あなたは少し意外な気がしませんか?

そこで氏が10年ほど前に書かれた『超思考』の中で、先祖のことについての考えに共感する部分が多かったのでご紹介いたします。

『目に見えないこと② [生き方]』より抜粋

『毎朝毎晩、仏壇を拝んでいる。なんて言ったら、怪訝な顔をする人がいるかもしれない。(省略)その昔は仏壇に毎朝水や供物をあげ、拝むのは人としてごく当たり前のことだった。(省略)頂き物も学校の成績表も、まずは仏壇に供えることになっていた。人の家を訪ねたら仏壇に手を合わせ、その家のご先祖様に挨拶するのが礼儀だった。仏壇を媒介にして、昔の日本人は死者と一緒に生きていたのだ。(省略)宗教というよりは習慣に近い。』

『お盆にはあの世のご先祖様を迎え、親しい人の命日には墓参りをし、新年には神社に詣でる。そういう風にして日本人は生きてきた。(省略)突き詰めて「あなたは本当にそれを信じているのですか」と問われたら答えに困る。キリスト教やイスラム教のような二者択一の宗教とはちょっと違う。俺が若い頃の浅草の芸人は、浅草寺の前を通る時には、必ずちょっと立ち止まって本堂の方に手を合わせたものだ。(省略)それは特に信心深かったということではない。あなたは浅草寺の観音様が実在すると信じているのですかと問われたら、きっと困った顔をしたと思う。』

『俺が仏壇に手を合わせるのも、別に来世とかあの世を信じているからではない。(省略)正直言ってあの世があるのか来世があるのか、俺のはよくわからない。生きている人間に分かるわけがないと思う。それは答えの出る問題ではないのだ。神様を信じるかどうかも同じことだ。(省略)その答えの出ない問題に、あえて答えを出さないのが日本人の知恵だったのだ。』

『インタ-ネットとグロ-バリズムで世界が一つになろうとしている今では、むしろ日本的なある意味で曖昧な宗教観の方が、現実的でもあるし大人な態度といえるんじゃなかろうか。自分はこの神を信じるぞと、力こぶを入れてしまうからややこしいことになる。(省略)日本に来た宣教師達は、キリスト教を信じるようになれば日本の文化はもっと発達するだろうと思った。(省略)けれど現代人の俺としては、ヨ-ロッパや中近東の人達がもし一神教でなくて多神教だったら、もうちょっと世界も平和だったんじゃなかろうかと空想してしまうのだ。』

『もちろん神様もいなければ、あの世も来世もない、人は死ねば無に帰るだけだ、そう考える人も多いはずだ。(省略)でもそういう無神論だけで生きていけるほど強い人間ばかりではない。自分にとって本当に大切な人を失った時に、そのこととどう折り合いをつけるか、自分にどうやって受け入れさせるか、あるいはその喪失感をいかにして乗り越えるか。人によって様々だろうけど、自分の経験から言えば、やっぱりそこにはクッションが必要だった。人は死んだら無に帰るという考えだけでは乗り越えられなかった。俺が毎朝毎晩仏壇に手を合わせるようになったのは、お袋が亡くなってからのことだ。』

『世界は目に見えるものだけでできているわけではない。(省略)彼らが本当にあの世から俺を見ていてくれているかどうかはわからない。(省略)ただ彼らへの感謝の気持ちだけは忘れたくない。死んだからといって絆まで断ち切られたとは思いたくない。だから俺は仏壇に手を合わせる。』

どうでしたでしょうか。お寺やお墓や仏壇がどんな存在であり続けてきたのか、うなずける考察ではなかったかと思います。

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